モーリス・ルブランの履歴
Biographie de Maurice Leblanc

1864年( 0歳 )
 12月11日、フランス・ノルマンディー地方ルーアン市で、モーリス・ルブランは、裕福な家庭の子として生まれた。
 父親はエミール・ルブラン( Émile Leblanc )、母親はブランシュ・ブロイ( Blanche Brohy )。モーリスは両親の間の2番目の子供として誕生する。
 姉にジュアンヌ( Jehanne 1863年生まれ )、妹にジョルジェット( Georgette 1869年生まれ )がいた。

 生まれた場所はコルネイユ( Pierre Corneille 1604-84)や、フロベール( Gustave Flaubert 1821-80 )の生家の近くで、アンドレ・ジッド( André Gide 1869-1951 )一家の住居からも、さほど遠くないところにあったという。
 ルブランの父親は、石炭の貿易商をしており、ルーアンと北部アイルランド( スコットランドとも )の間に持ち船を回し、手広く営業していた。
 また、母親の家系は、少なくとも四代はルーアンの出身者であり、ノルマンディーの古い家柄であった。少年時代のルブランは、よくヴァカンスになると、ジュミエージュにある祖父母の家に遊びに行っていたという。

1868年( 4歳 )
 ルーアン市フォントネル通り2番地にある生家が火事に見舞われる。

1870年( 6歳 )
 7月19日、普仏戦争が勃発し、ルブランの一家はプロシア軍の侵略を恐れて、父の持ち船のひとつに乗って、スコットランドのグラスゴーに疎開した。

1874年( 10歳 )
 このころルブランは、アシル・フロベール博士( 1813-82 作家フロベールの兄 )に、病気を看てもらっていたという。また、行きつけの薬剤師の妻が、『ボヴァリー夫人』のモデルとなった女性の娘だった。

 幼いころのルブランは、読書の好きな子供で、ウォルター・スコット( Walter Scott 1771-1832 )、バルザック( Balzac 1799-1850 )、ユゴー( Hugo 1802-85 )、デュマ( Dumas 1802-70 )、ジュール・ヴェルヌ( Jules Verne 1828-1905 )、フェニモア・クーパー( Fenimore Cooper 1789-1851 )などの作家の本を愛読していた。
 また、妹のジョルジェットの回想録によれば、少年時代のルブランはきわめて感受性が強く、神経質な子供だったという。

1875〜81年( 11〜17歳 )
 このころ、パトリ寄宿学校、コルネイユ高等中学を優秀な成績で卒業する。
 また、ノルマンディー地方を自転車で走り回り、エトルタの断崖やジュミエージュ修道院、セーヌの河口、サン・ワンドリーユの廃墟などを見て回った。そして、しだいに同郷の作家であるフロベールやモーパッサン( Guy de Maupassant 1850-93 )を深く敬愛するようになった。

1882年( 18歳 )
 8月、カーンにて、文学士課程のバカロレア( Baccalauréat ; 大学入学試験 )を受ける。
 その後、1年半をヨーロッパ漫遊旅行をして過ごす。( イギリスのマンチェスターや、ドイツのベルリンなどにも赴いたという。こうした外国遊学は、当時良家の子弟の間でよく行なわれていた。)

1883年( 19歳 )
 11月5日、1年の条件つき志願兵として、ヴェルサイユにて兵役に就く( 〜翌年11月12日まで )。
 その後、ルーアンに帰還する。

1885年( 21歳 )
 1月27日、母・ブランシュが亡くなる。

1886年( 22歳 )
 この当時のルブランは、職業について特別な志望を示さなかったが、父親は息子の将来を考えて、知り合いのミルード・ピシャール商会に入社させた。この会社は、ルーアンでもトップクラスの梳毛機(そもうき)製造会社だった。
 しかし、入社したもののルブランは、仕事にどうしてもなじむことができず、ひまを見つけては、文章を書くことに精を出していた。
 数ヵ月後、ルブランはミルード・ピシャール商会を退職する。そして、彼の性格に向いている文学への野望を新たに抱き、父親を説得して、パリに出ることを承諾させた。父親は、この 《 monter à Paris 》(“上京、パリ行き”の意味 ) に際して、息子が文学の道で失敗したときのために、法律を勉強することを条件にしたという。

1888年( 24歳 )
 パリに出たルブランは、父親との約束である法律の勉強などそっちのけで、「フィガロ紙」( Le Figaro )、「エコー・ド・パリ」( L'Echo de Paris )、「ロート紙」( L'Auto )などの新聞社に通い、記事や小説などを投稿しはじめた。
 また、キャバレー〈黒猫〉( Chat noir シャ・ノワール)にも足しげく通い、アルフォンス・アレー( Alphonse Allais 1854-1905 )、テオフィル=アレクサンドル・スタンラン( Théophile-Alexandre Steinlen 1859-1923 )、ジャン・モレア( Jean Moréas 1856-1910 )、ルコント・ド・リール( Leconte de Lisle 1818-94 )などの作家・詩人や画家たちと、親しく交際したという。

1889年( 25歳 )
 1月12日、エルネスティーヌ・ラランヌ( Ernestine Lalanne )と結婚する。二人の間には娘のマリー=ルイーズ( Marie-Louise )が生まれる。

1890年( 26歳 )
 11月23日、ルーアンで、フロベールの記念碑の除幕式があり、モーパッサンやゴンクール( Edmond de Goncourt 1822-96 )、ゾラ( Émile Zola 1840-1902 )、ミルボー( Octave Mirbeau 1848-1917 ) らが列席する。式典のあと、夜行列車でパリへと帰っていく作家たちの車室に、ルブランはひそかに忍び込み、ともにパリまで一夜の旅行をしたという。

1891年( 27歳 )
 心理小説を扱った短編集 『夫婦たち』(“Des couples”)を処女出版する。ルブランはこの本の冒頭に「ギ・ド・モーパッサン先生に捧ぐ」という献辞を入れた。
 出版当初はほとんど話題に登らなかったが、小説家で批評家でもあるレオン・ブロワ( Léon Bloy 1846-1917 ) は、ルブランの作品をモーパッサンのそれと比較して絶賛した。
 この年、妹のジョルジェットが歌手兼女優になることを目指して、ルーアンからパリに出てきた。

1892年( 28歳 )
 マルセル・プレヴォ( Marcel Prévost 1862-1941 ) から「ジル・ブラス」紙( Gil Blas )を紹介され、定期的に小説を掲載しはじめる。
 12月24日、戯曲 『リジストラータ』(“Lysistrata”) をモーリス・ドネ(Maurice Donnay 1859-1945 ) と共同制作し、パリのグラン・テアトルにて上演する。音楽はアメデ・デュタック( Amédée Dutacq ) が担当する。

1893年( 29歳 )
 4月9日〜5月26日、長編小説 『ある女』(“Une femme”)を発表する。この小説は、『ボヴァリー夫人』(“Madame Bovary”)や『女の一生』(“Une vie”)から影響を受けたもので、「ジル・ブラス」紙に連載された。
 この小説によってルブランは、ジュール・ルナール( Jules Renard 1864-1910 )やレオン・ブロワ、そして、アルフォンス・ドーデ( Alphonse Daudet 1840-97) たちから、高い評価を得ることとなった。
 この年、「ジル・ブラス」紙に “ジュミエージュ神父” の筆名を使って、いくつかの短編を発表した。

1894年( 30歳 )
 『苦悩する人々』(“Ceux qui souffrent”) を出版する。
 6月11日、自転車を称賛する短編小説 『彼女』( “Elle” )を発表する。
 この年、エトルタ―パリ間を、しばしば自転車に乗って旅行した。

1895年( 31歳 )
 4月4日、妻のエルネスティーヌと離婚する。
 この時期、ルブランは、雑誌「ルヴュ・ブランシュ」(“Revue blanche”)に寄稿している「パリの名士たち」(“Tout-Paris”)と交際しはじめ、マラルメ( Mallarmé 1842-98 )や、ロベール・ド・モンテスキウ( Robert de Montesquiou 1855-1921 )、コレット( Colette 1873-1954 )たちを知った。
 この年の冬を、ルブランはニースで過ごす。また、このころの彼について、妹のジョルジェットは回想録のなかで、《 当時の兄は、1830年代のモードに気を配り、しゃれたセンスの服装をしていた 》と書き残している。
 また、この年からジョルジェットは、詩人で劇作家のモーリス・メーテルリンク( Maurice Maeterlinck 1862-1949 )とつき合い始めた。

1896年( 32歳 )
 短編小説集 『秘密の時間』(“Les Heures du mystère”)を発表する。この作品のなかでルブランは、心理的現象についての彼の深い関心を表現している。

1897年( 33歳 )
 長編小説 『アルメエルとクロード』(“Armelle et Claude”)を発表する。この作品の挿絵をスタンランが描く。
 夏、ノルマンディー地方・バニョル=ド=ロルヌ( Bagnoles-de-l'Orne )近郊に出かけ、妹のジョルジェットとその恋人のメーテルリンクの家「モンジョワ荘」( Montjoie )に滞在する。
 12月11〜29日、自転車を称賛する長編小説 『これが翼だ』(“Voici des ailes”)を発表し、いくらかの評判を得た。

1899年( 35歳 )
 “文芸家協会”( Société des Gens de Lettres ; バルザックが1838年に創設 )への入会を認められる。
 このころ、ジョルジェットとメーテルリンクはリュヌレイ( Luneray; ディエップの南西にある町 )近郊のグリュシェ=サン=シメオン( Gruchet-Saint-Siméon )に貸し別荘を借りる( 〜1907 )。ルブランはしばしば、彼らの別荘を訪問した。

1900年( 36歳 )
 姉・ジュアンヌとその夫・フェルナン・プラ( Fernand Prat )の居住する「グールの城館」( château de Gueures )に滞在し、ディエップの附近を旅行する。

1901年( 37歳 )
 長編の恋愛小説 『熱狂』(“L'Enthousiasme”)を発表するが、まったく成功しなかった。

1902年( 38歳 )
 この年、ドンフロン地方( Domfront )を舞台にした長編小説『澄みきった瞳』(“Les yeux purs”)を発表する。
 4月30日、メーテルリンクの戯曲『ペレアスとメリザンド』 が、ドビュッシー( Debussy 1862-1918 )の作曲によって、パリのオペラ・コミック座で上演される。メーテルリンクはこのオペラの主演女優に、彼の愛人であるジョルジェットを推薦したが、ドビュッシーはその提案をしりぞけた。
 8月12日、ルブランとマルグリット・ウォルムセ( Marguerite Wormser )とのあいだに長男・クロード( Claude )が生まれる。

1904年( 40歳 )
 短編集『赤い口、八十馬力』(“Gueule-Rouge, 80-chevaux”)を出版する。

1905年( 41歳 )
 1月24日、父・エミールが亡くなる。
 7月15日、友人のピエール・ラフィット( Pierre Lafitte )から依頼された短編小説 『アルセーヌ・ルパンの逮捕』(“L'Arrestation d'Arsène Lupin”)を「ジュ・セ・トゥ」誌(“Je sais tout”; この年の2月に創刊された ) に掲載する。
 12月15日、「ジュ・セ・トゥ」誌で 『アルセーヌ・ルパンの風変わりな生活』(“Le Vie extraordinaire d'Arsène Lupin”) シリーズが、毎月連載されはじめる。
 ルブランは「アルセーヌ・ルパン・シリーズ」の人気の裏で、大衆文芸に身を落としたことについて、いくらかのためらいを感じたという。

1906年( 42歳 )
 1月31日、マルグリット・ウォルムセと再婚する。
 5月7日、戯曲 『憐れみ』(“La Pitié”)をアントワーヌ座にて上演する。評価が高かったにもかかわらず、公演は失敗した。
 6月15日、『遅かりしシャーロック・ホームズ』(“Sherlock Holmes arrive trop tard”) を発表する。この作品のなかで、英国の作家コナン・ドイル( Conan Doyle 1859-1930 ) に無断でホームズの名を使用したため、抗議の手紙を受け取った。以後、ホームズの名はつづり字を変えた“エルロック・ショルメス”( Herlock Sholmès ) として登場することとなる。

1907年( 43歳 )
 “文芸家協会”の委員に選ばれる。ルブランは作家の利益の擁護について、積極的に活動した。
 6月10日、短編集 『強盗紳士アルセーヌ・ルパン』(“Arsène Lupin, gentleman cambrioleur”) をラフィット社から出版する。
 この年、ジョルジェットとメーテルリンクはサン・ワンドリーユの廃墟を買い取り、転居した。
また、ジョルジェット主演の 『アリアンと青ひげ』 が上演される。脚本はメーテルリンク、音楽はポール・デュカス( Paul Dukas 1865-1935 ) が担当した。

1908年( 44歳 )
 2月10日、『アルセーヌ・ルパン対エルロック・ショルメス』(“Arsène Lupin contre Herlock
Sholmès”) を出版する。
 10月28日、フランシス・ド・クロワッセ( Francis de Croisset 1877-1937 ) との合作で、戯曲 『アルセーヌ・ルパン』(“Arsène Lupin”) をアテネ座にて上演する。
 同じ年、ガストン・ルルー( Gaston Leroux 1868-1927 ) が 『黄色い部屋の謎』 を出版した。ルブランとルルーは以後、その作風についてよく比較されることとなる。

1909年( 45歳 )
 6月15日、『エギュイーユ・クルーズ』(“L'Aiguille Creuse”; 邦題「奇巌城(奇岩城)」) を出版する。

1910年( 46歳 )
 3月5日〜5月24日、「ル・ジュールナル」紙(“Le Journal”)に 『813』 を連載する。
 以後、ルブランは20年以上にわたり、このとても大衆的な新聞に、たびたび小説を連載することになる。
 8月29日、ジョルジェットが、サン・ワンドリーユの廃墟で 『マクベス』 や 『ペレアスとメリザンド』 を上演する。

1911年( 47歳 )
 9月15日〜10月15日、『アルセーヌ・ルパンのある冒険』(“Une aventure d'Arsène Lupin”) を、ミュージック・ホール「ラ・シガール」 にて上演する。
 この年、マルセル・アラン(Marcel Allain 1885-1969 )&ピエール・スーヴェストル( Pierre Souvestre 1874-1914)合作の 『ファントマ』 が出版される。大衆はこの新しい“犯罪者”に、ルパンと張り合うことを期待したという。
 また、この年、姉夫婦のジュアンヌとフェルナンが、タンカルヴィルの城館を別荘として借りる。

1912年( 48歳 )
 9月25日〜11月9日、『水晶の栓』(“Le Bouchon de cristal”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 短編集 『うろこ模様のバラ色のドレス』(“La Robe d'écailles roses”)を出版する。これらの短編の作風は多かれ少なかれ、モーパッサンの系統を引いたものだという。
 このころ、ルブランは友人にあてた手紙のなかで、アルセーヌ・ルパンの創作者としてしか知られていないことについて、彼の後悔の言葉を述べている。

1913年( 49歳 )
 6月、短編集 『アルセーヌ・ルパンの告白』(“Les Confidences d'Arsène Lupin”) を出版する。
 夏、ノルマンディーに滞在し、タンカルヴィル、エトルタ、サン・ワンドリーユ、ヴール=レ=ローズなどを旅行する。

1914年( 50歳 )
 8月1日、第一次世界大戦が勃発し、“総動員令”が発令される。

1915年( 51歳 )
 戦時中の困難な時局のさなか、ルブランは 《 Les Contes héroïques 》(「英雄たちの物語」) や、『砲弾の破片』(“L'Éclat d'obus” ;邦題「オルヌカン城の謎」) を発表し、愛国的な小説を書くことに専念した。
 この年の夏、ルブランはエトルタにある「ル・スフィンクス荘」( Le sphinx )を別荘として借りる。

1916年( 52歳 )
 11月4日〜翌年1月20日、アメリカの長編小説から着想を得た映画脚本 『赤い輪』(“Le Cercle rouge”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する

1917年( 53歳 )
 5月21日〜7月26日、『黄金三角』(“Le Triangle d'or”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。

1918年( 54歳 )
 春、エトルタやタンカルヴィルに滞在。「ル・スフィンクス」荘を持ち主のイギリス人から購入し、これに「ルパン園」( Le Clos Lupin )と名づけ、夏にはここでヴァカンスを過ごした。

1919年( 55歳 )
 6月6日〜8月3日、『三十棺桶島』(“L'Île aux trente cercueils”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 7月・10月、冒険科学小説 『三つの目』(“Les Trois Yeux”) を 「ジュ・セ・トゥ」誌に掲載。

1920年( 56歳 )
 8月31日〜10月31日、『虎の牙』(“Les Dents du tigre”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 9月15日〜10月15日、『アルセーヌ・ルパンの帰還』(“Le Retour d'Arsène Lupin”) を 「ジュ・セ・トゥ」誌に連載する。
 10月・11月、『恐怖の大変動』(“Le Formidable Événement” ;邦題「驚天動地」または「ノーマンズ・ランド」) を 「ジュ・セ・トゥ」誌に掲載する。
 このころからルブランは、彼の創りあげたヒーローの成功を、あきらめながらではあるが、少しずつ受け入れるようになっていった。
 また、妹のジョルジェットは、メーテルリンクと1918年に別れたあと、アメリカに出発して映画・演劇の仕事を初めからやり直そうとした。

1921年( 57歳 )
 レジヨン・ドヌール4等勲章( オフィシエ章 )を受章する。

1922年( 58歳 )
 12月〜翌年1月、『八点鐘』(“Les Huit Coups de l'horloge”) を 「エクセルスィオール」紙(“Excelsior”) に連載する。

1923年( 59歳 )
 1月28日〜3月16日、『綱渡りのドロテ』(“Dorothée danseuse corde”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 1月25日、ルーアンにて、母校・コルネイユ高等学校の廃校記念碑の除幕式に出席する。
 12月10日〜翌年1月30日、『カリオストロ伯爵夫人』(“La Comtesse de Cagliostre”) を
 「ル・ジュールナル」紙に連載する。

1924年( 60歳 )
 12月26日〜翌年1月21日、『バルタザールの風変わりな毎日』(“La Vie extravagante de Balthazar”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。この作品では、ルパンとは異なる、純真で気どらない新しい登場人物を創ろうとした。
 この年、ルブランはルパンものの翻訳や翻案の版権に関する莫大な著作料を受け取った。しかし、彼の心理小説については、いかなる成功も得られなかった。
 また、アメリカにいたジョルジェットが帰国し、マルセル・レルビエ監督( Marcel L'herbier 1888-1979 ) の映画 『人でなしの女イニューメン』(“L'Inhumaine”) に出演した。

1926年( 62歳 )
 12月8日〜翌年1月18日、『緑の目の令嬢』(“La Demoiselle aux yeux verts”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。

1927年( 63歳 )
 5月、『山羊皮服を着た男』(“L'Homme à la peau de bique”) を 「フランスの作家によって書かれた愛」(“L'Amour selon des romanciers français”) に掲載する。この小説は、エドガー・アラン・ポー( Edgar Allan Poe 1809-49 )の 『モルグ街の殺人』 から着想を得たものだという。
 この年、ガストン・ルルーが死去。( 4月15日 ) ルルーはルブランとならんで、当時のフランスのもっとも大衆的な推理小説家だった。ルブランはルルーの未亡人に宛てて、故人に対する哀悼と讃辞の手紙をしたためている。

1928年( 64歳 )
 2月、『バーネット探偵社』(“L'Agence Barnett et Cie”) を ラフィット社から出版。
 6月25日〜7月31日、『謎の家』(“La Demeure Mystérieuse”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。

1929年( 65歳 )
 7月20日〜8月25日、『ジェリコ公爵』(“Le Prince de Jéricho”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。

1930年( 66歳 )
 7月7日、コナン・ドイルが死去。
 ルブランは8月1日に、『コナン・ドイルについて』(“A propos de Conan Doyle”) と題するエッセイを 「政治・文学紀要」(“Les Annales Politiaues et Littréraires”) に発表した。
 8月8日〜9月15日、『バール・イ・ヴァ荘』(“La Barre-y-va”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 10月16日、長男・クロードと、ドゥニーズ・メナッシェ=ダヴー( Denise Ménasché-Davoud )が結婚する。
 11月15日、『エメラルドの指輪』(“Le Cabochon d'émeraude”)を 「政治・文学紀要」 に掲載する。この作品は、ジグムント・フロイト( Sigmund Freud 1856-1939 ) の 「精神分析」から題材を得たといわれる。

1931年( 67歳 )
 10月26日〜12月5日、『真夜中から七時まで』(“De minuit à sept heures”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。この作品では、アルセーヌ・ルパンに似通った人物を登場させている。

1932年( 68歳 )
 6月6日〜8月20日、『二つの微笑を持つ女』(“La Femme aux deux sourires”) を 「ル・ジュールナル」紙に連載する。
 9月、アンドレ・ド・マリクール( André de Maricourt )との共著で、長編の児童書 『冒険の森』(“La Forêt des aventures”) を出版する。
 11月21日〜12月31日、『赤い数珠』(“Le Chapelet rouge”) を 「ラ・ヴォロンテ」紙 に連載する。

1933年( 69歳 )
 6月17日〜7月15日、『特捜班ヴィクトール』(“Victor, de la brigade mondaine”) を 「パリ・ソワール」紙 に連載する。

1934年( 70歳 )
 2月、『ヌード女性の絵』(“L'Image de la femme nue”) を フラマリオン社から出版する。

1935年( 71歳 )
 6月、『青い芝生のスキャンダル』(“Le Scandale du bleu”) を フラマリオン社から出版する。
 7月、『カリオストロの復讐』(“La Cagliostro se venge”) を ラフィット社から出版する。
 12月14日、ピエール・L・パロ( Pierre L Palau ) と戯曲 『暗闇の男』(“L'Homme dans l'ombre”) を共同制作し、“二つの仮面”座にて上演する。

1936年( 72歳 )
 ラジオ向けにシリーズものの戯曲を書く。( 第1作目は『アルセーヌ・ルパンの逮捕』 )
 3月27日、『ペギー、再びアルセーヌ・ルパンに会う』(“Peggy rencontre de nouveau Arsène Lupin” ) をラジオ放送する。

1939年( 75歳 )
 1月10日〜2月11日、『アルセーヌ・ルパンの数十億』(“Les Milliards d'Arsène Lupin”) を 「ロート」紙に連載する。

1941年( 77歳 )
 11月6日、モーリス・ルブランがペルピニャンで、脳溢血のため死去。パリ・モンパルナスの墓地に葬られる。
 その数週間前( 10.26 )、彼の妹のジョルジェットも、癌のため死去する。



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